おすすめ観光ルート
偉人の足跡をたどるルート
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安養寺 / 厚母大仏(木造阿弥陀如来坐像)【桓武天皇、坂上田村麻呂、隈研吾氏】
桓武天皇の時代(781~806年)に建立されたと伝えられています。
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かつては長門国分寺の奥の院にあったとされ、その胎内には「田村将軍祷念佛」との銘文とあり、坂上田村麻呂(758~811年)の祈念によって建立されたとも。
大仏殿の設計者は、著名な建築家で「下関市川棚温泉交流センター(川棚の杜)」や新国立競技場「杜のスタジアム」の設計者でもある隈研吾氏です。車で15分 -
下関市川棚温泉交流センター(川棚の杜)【アルフレッド・コルトー、隈研吾氏】
著名な建築家で新国立競技場「杜のスタジアム」の設計者でもある隈研吾さんが設計された下関市の公共施設。
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大小様々な三角形で構成されているのが特徴で、平成22年1月に竣工しました。
その大交流室は、川棚温泉と厚島(愛称:孤留島、こるとう)を愛した世界的なフランス人ピアニスト、アルフレッド・コルトーにちなんで「コルトーホール」との愛称で親しまれています。徒歩で2分 -
妙青寺【大内持盛、大内義隆、種田山頭火、雪舟】
1431年(永享3年)、周防国・長門国守護であった大内持盛(もちもり)が、筑前に出陣して戦死した先代の大内盛見(もりはる)の菩提(ぼだい)を弔うため、「国清寺」の寺号で建立したといわれています。
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御成門の横には、流浪の俳人、種田山頭火の句碑「湧いてあふれる中にねてゐる」が建っています。
本堂裏の庭園は、画禅一致の生活を送った禅僧、雪舟(せっしゅう)による築庭とも。車で6分 -
三恵寺(さんねじ)【怡雲和尚、中山忠光】
806年(大同元年)、奈良東大寺の実忠(じっちゅう)和尚によって創建された「長門三ヶ寺」のひとつ。
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高名な僧侶であった怡雲(いうん)和尚が再興しました。
幕末に活躍した公家の尊王攘夷論者・中山忠光の潜伏していた部屋が、庫裏(くり)の屋根裏にあるのだそう。車で10分 -
川棚のクスの森【大内義隆、種田山頭火】
推定樹齢1,000年を超す「川棚のクスの森」は、大正11年(1922年)に国の天然記念物に指定され、平成2年(1990年)には「新日本名木百選」にも選ばれた、豊浦を代表する巨木。
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ここには、天文20年(1551年)、家臣に城を追われ、川棚ヶ原で最後の一戦を交えた大内義隆(1507~1551年)の愛馬であった「雲雀毛(ひばりげ)の名馬」が葬られています。
また、漂泊の俳人、種田山頭火(1882~1940年)もその雄大さに感動して3つの句を残し、そのうちの一つ「大楠の 枝から枝へ 青あらし」と刻まれた句碑が建てられています。車で5分 -
小野小町の墓【小野小町】
“世界三大美人”の一人に数えられる小野小町のお墓。
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もともと自尊心の強かった小町は、色褪せていく自らの姿が耐えられず、老いさらばえた姿を京の都にはさらせまいと、全国を転々と流浪したのち、この地にたどり着きました。
その身を隠し通すことを選んだ心の内をそのまま物語るように、小町のお墓は小さく、ひっそりと岩陰に佇んでいます。車で10分 -
湯浅倉平君生誕之地【湯浅倉平】
豊浦郡宇賀村(現在の下関市豊浦町宇賀)の出身で、大正から昭和にかけて警視総監、宮内大臣等を歴任した湯浅倉平。
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会計検査院長、宮内大臣を歴任し、1936年(昭和11年)の二・二六事件では、反乱将校らの掲げる「昭和維新」に反対する立場の内大臣として昭和天皇を補佐し、その重責を全うしました。
また、内大臣時代には、高齢の元老西園寺公望を助け、宮中良識派の一員として陸軍の専横に対抗する立場を貫いたため、「生きた英雄」と称える声も。車で3分 -
日本大敷網漁業発祥之地【山本惣左衛門、山本勘兵衛】
大敷網漁(おおしきあみりょう)とは、魚を垣網(かきあみ)で誘導し、あらかじめ設置していた袋網(ふくろあみ)の中に追い込んで捕る定置網漁の一つ。
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1656年(明暦2年)、回遊する魚の群れを目にした地元の漁師・山本惣左衛門が、これを捕らえる「魚敷網」を発明。
彼の死後・1668年(寛文8年)に、子の勘兵衛が、魚敷網に改良を施したのが「湯玉大敷網」です。車で8分 -
夢ヶ丘公園 / 礒部國四郎建立記念碑「獨断腸」【礒部國四郎】
明治・大正の時代、小串地区の発展に力を尽くした礒部國四郎(1867~1935年)の記念碑がある公園。
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礒部國四郎は、31歳で小串村長に就任して以降、山口県議会議員などを歴任し、明治30年代には、小串・川棚・楢崎・小月地区を結ぶ達道(現在の県道35号線)の改修事業に尽力しました。
そのほか、田中義一・大岡幾造記念碑、大内義隆公残党古戦場碑、森鴎外の句碑等があります。