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川棚乗馬クラブ
平成23年の山口国体で馬術競技の会場にもなった乗馬クラブ。
現在は、サラブレット3頭、ポニー1頭を含む7頭がいます。
「レッスンがわかりやすい」と東京や海外からも訪れる方がいるほどで、全国乗馬倶楽部振興協会からは「優良乗馬施設」に認定されています。
お子様からご年配の方まで乗馬を気軽に楽しめる引き馬のコースや、自分で馬を動かしてみたい方向けのコース、年に4回のレッスンを受けられる乗馬教室など、初心者やビジターの方でも気軽に乗馬を楽しめます。
今後は、役目を終えた高齢の馬たちの養老施設としての利用も受け入れる予定。
インストラクターの荒木さんは、「多くのお客様に来ていただいて、馬とのふれあいで癒やされてほしい」と語ります。
馬たちの純真無垢な綺麗な瞳、ぜひ近くで見てほしいです。 -
中ノ浜遺跡(山口県指定史跡)
豊浦を含む響灘の沿岸は、弥生文化を最初に大陸から受容した地で、全国的にも有数の規模を誇る弥生人の埋葬地が次々に発見されています。
国道191号沿いのJR川棚温泉駅付近に現れる「中ノ浜遺跡」の案内標識に従い、県道245号線を西側(海側)へ向かいます。
県道が新しくなっているため、少し分かりづらいかもしれませんが、用水路沿いの墓地を抜けた先にある海岸砂丘がその場所です。
山口県指定史跡である「中ノ浜遺跡」は、下関市豊北町の土井ヶ浜遺跡とともに響灘を代表する弥生時代の埋葬遺跡の一つで、昭和33年に発見され、第1次調査が行われた昭和35年以降、これまでに9次にわたる発掘調査が行われました。
この遺跡からは、少なくとも103体以上の弥生人骨、44基の箱式石棺墓、34基以上土坑墓、12基の置石墓、9基の土器棺墓などが発見されています。
そのほかにも、磨製石剣、細型銅剣などの武器や、腕輪、玉類など多数の装身具が発掘されました。
小さな史跡ですが、私たちの遠い祖先かもしれない弥生人と同じ空の下、当時の暮らしに思いを馳せてみてはいかがでしょう。
お問合せは、豊浦町観光協会(083-774-1211)まで。 -
虚無僧墓(こむそうばか)
天保年間(1830~1845年)のあるとき、一人の虚無僧が川棚温泉の北東にある小野を訪れていました。
この虚無僧は、尺八を吹くとき以外はいつも酒を飲んでいたため、村人たちからは敬遠されていました。
そんなある日、村の娘が山賊に襲われます。
すると、この虚無僧が一人で山賊を相手に戦い、娘を無事助け出すことに成功。
その日以来、村人の虚無僧への接し方も変わり、虚無僧のもとにそっと野菜や米などを置いていくようになりました。
弘化3年(1846年)9月15日、朝から「ウンウン」とうなっていた虚無僧は、突然、川棚川の河原に走りだし、大きな岩に頭を二度、三度とぶつけて倒れました。
何事かと心配して駆けつけた村人に、虚無僧はこう言います。
「私は、病で脳を冒されていたため、何もしてあげられなかった。しかし、私の墓を建てて酒を供えてくれれば、あなたたちの苦しみを和らげてあげましょう」。
虚無僧は、そう言い残し、息を引き取りました。
虚無僧が頭の痛みを和らげるために酒を飲んでいたことを知った村人たちは、虚無僧を哀れに思い、墓を建てて供養しました。
河原にあった墓は、大正13年(1924年)、県道226号線沿いの幟(のぼり)が並ぶ現在の場所に建て替えられました。
今でも、頭痛など頭の病と闘う方たちが、酒や自分の帽子を捧げ、その平癒を祈願しています。
お問合せは、豊浦町観光協会(083-774-1211)まで。 -
小野小町の墓
“世界三大美人”の一人に数えられる小野小町のお墓が、川棚温泉の北東にある小野にあります。
小野一族の文才を継いだ小町は、和歌の世界で活躍する一方、“絶世の美女”とうたわれて周囲の視線を一身に集めました。
しかし、いくら小町といえど、流れる歳月には逆らえません。
もともと自尊心の強かった小町は、色褪せていく自らの姿が耐えられず、老いさらばえた姿を京の都にはさらせまいと、全国を転々と流浪したのち、この地にたどり着きました。
村人は皆親切で、小町に温かく接しましたが、一人思い悩む小町の心は、一向にすぐれません。
小町は、愛用の銅鏡を片時も離さず、日ごとに失われていく美貌に無常を感じながら、晩年をこの地でひっそりと暮らし、果てたと伝えられています。
「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」
その身を隠し通すことを選んだ心の内をそのまま物語るように、小町のお墓は小さく、ひっそりと岩陰に佇んでいます。
「虚無僧墓バス停」から徒歩3分。
お墓の前までは細くて急な坂道になっていますので、足を滑らさないようご注意ください。
お問合せは、豊浦町観光協会(083-774-1211)まで。 -
岩谷十三仏(いわやじゅうさんぶつ)
川棚温泉の北東にある小野。
その山間を縫う旧道を上っていくと、一帯に広がる棚田の中ほどに「岩谷十三仏」が見えてきます。
この十三仏は、長門の大寧寺で亡くなった大内義隆公とその主従を供養するために作られたと伝えられています。
以前、十三仏のうち11体は、大内義隆公が隠れ住んでいたという山奥の八丈岩に鎮座し、残りの2体は、主従の2人が見張りをしていたという場所に鎮座していました。
鎮座しているのは、不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観世音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩の十三の仏様たち。
周囲は一面桜の木で覆われ、棚田を見守る十三仏様たちも心なしか嬉しそうに見えます。
大内義隆公は、岩谷を離れる際、小野の村人に感謝して大内家秘伝の「雨乞秘法巻物一巻」を下されました。
これが、小野に伝わる「ばんばら楽」といわれています。
棚田の途中までは車で上れますが、道が狭いので運転には十分ご注意ください。
お問合せは、豊浦町観光協会(083-774-1211)まで。 -
川棚のクスの森(国指定天然記念物)
推定樹齢1,000年を超す「川棚のクスの森」は、大正11年(1922年)に国の天然記念物に指定され、平成2年(1990年)には「新日本名木百選」にも選ばれた、豊浦を代表する巨木です。
森という愛称ですが、実際は1本のクスノキで、枝分れを繰り返しながら大きく育った雄大な姿がまるで森のように見えることから、その名が付けられました。
ここには、天文20年(1551年)、家臣に城を追われ、川棚ヶ原で最後の一戦を交えた大内義隆(1507~1551年)の愛馬であった「雲雀毛(ひばりげ)の名馬」が葬られてており、地元では「霊馬の森」、「霊馬神」と呼ばれ、毎年3月28日には慰霊祭が行われています。
また、漂泊の俳人、種田山頭火(1882~1940年)もその雄大さに感動して3つの句を残し、そのうちの一つ「大楠の 枝から枝へ 青あらし」と刻まれた句碑が建てられています。
全盛期には、高さ27m、幹周り11.2mと山口県一の大きさを誇り、東西58m、南北53mに広がる枝張りの美しさは、西日本一ともいわれていたこの巨木ですが、平成29年(2017年)7月、急激に枯葉が目立つようになりました。
その後、全ての葉が落ちる枯損にまで至りましたが、下関市教育委員会が中心となって、文化庁、山口県、地元住民が連携し、幾度となく樹勢回復のための対策が進められ、現在では、復活に向けた「胴吹き」が始まっています。
生命の神秘と力強さを感じずにはいられないこのパワースポットで、森の復活を祈ってみませんか?
お問合せは、豊浦町観光協会(083-774-1211)まで。 -
三恵寺(さんねじ)
川棚温泉街入口の交差点から、県道261号線を東北東に車で1.3kmほど進むと、左手の大きな池を過ぎた右急カーブ付近に、左へ折れ曲がる細い道があります。
その先にある細い坂道を車で上り、参拝者用の駐車場から徒歩で70m。
すると、凛とした静寂の中に、「三恵寺」の本堂と大きな庫裡(くり)が見えてきます。
806年(大同元年)に創建されたお寺ですので、その歴史は、なんと1200年以上。
本堂の柱には、「飛来山三恵寺」と「川棚温泉開基」の文字が刻まれています。
実は、このお寺、川棚温泉の発祥と深い関係があるのです。
応永年間(1394~1428年)のあるとき、このお寺を中興させた高名な僧侶であった怡雲(いうん)和尚は、日照りと疫病に苦しむ人々を助けたい一心で祈りを続けていました。
するとある晩、その枕元に薬師如来が現れ、この土地を守っていた青龍の伝説と人々の病気を治した不思議な温泉の物語を告げたというのです。
「怡雲和尚が、怪我をした動物が浸かっていた川棚の沼を触ってみると、水が温かった。病に苦しむ人々を癒やすため、この温泉を発掘することを決意し、村民の協力のを得て川棚温泉を開基したと伝えられています」。
ご住職がそう語ってくれました。
ほかにも見どころが多いお寺なのです。
ご本尊の「千手観音」(山口県指定重要文化財)は、70年に一度しか開帳されない秘仏。
予定どおりだと、次は、2077年ということになります。
本堂の左手には、参拝者を見守るように立つ「ぼけ封じ観音」が。
「世の中にある“心のぼけ”による苦しみや不安、特に、お年寄りの不安や寂しさをお救いくださる」とのことでした。
さらに、歴史好きにはたまらないスポットも。
幕末に活躍した公家の尊王攘夷論者・中山忠光の潜伏していた部屋が、庫裏(くり)の屋根裏にあるのだそう。
「山奥のお寺だが、気軽に立ち寄って、ゆったりと過ごしてほしい」とは、ご住職のお言葉。
実際に、本堂の天井には、信者さんたちが描いた絵(中には、アニメキャラやハリウッド女優の絵も。)が並んでいます。
とても気さくで優しさが滲み出ているご住職は、光市のお寺のご住職も兼ねていますので、「見学を希望する場合は、事前に連絡してほしい」とのことです。 -
舟郡ダム(青龍湖)
2001年(平成13年)に完成した「舟郡ダム」は、その堤体(ていたい)の上と下に誰もが憩える公園を備えており、川棚温泉の起源を今に伝える「青龍伝説」にちなんだ「青龍湖」との愛称で親しまれています。
湖面と木々の間を巡る道は約1.6kmあり、ウォーキングやジョギングのコースとしても最適です。
堤体の上からは、三方を山に囲まれた川棚平野とその向こうの響灘、そこに浮かぶ厚島(愛称:弧留島、こるとう)を一望できる絶景スポットとして、思い思いの過ごし方ができます。
川棚温泉街から徒歩で向かうこともできますし、車で堤体の上に上がることもできる、おススメの目的地です。
また、堤体を上れる細い階段もありますので、体力に自信のある方は、堤体の下にある公園からチャレンジすることもできます。
ただし、この階段には手すりがないので、転倒や落下には十分ご注意ください。
漂白の俳人、種田山頭火や、世界的なフランス人ピアニスト、アルフレッド・コルトーも絶賛したこの景色を、ぜひ一度、眺めてみてはいかがでしょう。
お問合せは、下関市役所豊浦総合支所建設農林水産課(083-772-4031)まで。 -
杜の庭園 リフレッシュパーク豊浦
四季折々の花々、優しい風に揺れる木々、ゆったりとくつろげる芝生、そして、全てを照らす心地よい陽の光。
自然に包まれた「リフレッシュパーク豊浦」は、日常から解放された憩いと遊びの中で、その名のとおり心と体をリフレッシュさせてくれる下関市の都市公園です。
広大な敷地には、花壇や森だけでなく、お子様向けの遊具や、小さな生き物とふれあえる場所などがあり、小さなお子様からご高齢の方まで、ゆったりとしたピクニックの時間を過ごすことができます。
広大なイベント広場では、春の「菜の花まつり」や秋の「豊浦コスモスまつり」など、年間を通して様々なイベントが開催されており、何度訪れても飽きることのない豊浦のオアシスです。
ペットや自転車などの持込みは禁止されていますので、ご注意ください。 -
秋田山荘跡遊歩道
「秋田商会」創業者の秋田寅之介(1874~1953年)が晩年を過ごした「秋田山荘」。
その跡地が、川棚温泉街の付近に残っています。
1905年(明治38年)に設立された「秋田商会」は、木材や食料の運搬などを手掛けた総合商社。
下関市南部町の旧秋田商会ビルが日本遺産の構成文化財となっていることをご存知の方も多いかもしれません。
「秋田山荘」は、1947年(昭和22年)に完成した別荘で、もともとは社員のための保養施設だったとか。
雑木林の中を巡る心地よい遊歩道は、今も当時の名残を留め、静かに水をたたえる池には秋田寅之介が育てた水連が浮かんでいます。
安全のため、見学にはガイドの同行が必要です。
見学・案内をご希望の方は、川棚温泉観光ボランティアガイドの会(083-774-3855)までお申し込みください。 -
八ヶ尻池遊歩道(やつがじりいけゆうほどう)
ここにたどり着くには、2つのルートがあります。
一つは、川棚温泉街の奥にある「妙青寺」の右側にある脇道から上る車道ルート。
もう一つは、「下関市川棚温泉交流センター(川棚の杜)」の横にある急な石段を上って「松尾神社(まつのおじんじゃ)」の左側へ抜ける徒歩ルートです。
車道ルートであれば、森に囲まれた小さな駐車場の付近にある「八ヶ尻池遊歩道」の看板から、未舗装の畦道(あぜみち)を100mほど下る(足下注意)とたどり着けます。
また、徒歩ルートの場合は、舗装された細い道路に出たあと、道なりに下っていけば到着です。
川棚温泉の起源を今に伝える「青龍伝説」は、次の一文で始まります。
「遠い昔、とようらの奥深い森に囲まれた泉に、一匹の青龍がすんでいました」と。
今となっては、それがどこなのか知る術もありませんが、森と泉に囲まれたこの遊歩道を歩いていると、「こんな場所だったのかも」といった気持ちになってきます。
この遊歩道は、「青龍」を祀る「松尾神社」だけでなく、「舟郡ダム(青龍湖)」や「国清山自然公園」へもつながっていて、静かな森の中を散策するには最適な距離です。
なお、遊歩道までの道は、ある程度勾配があり、落ち葉や枝が落ちていますので、滑ったりつまずいたりしないよう、十分ご注意ください。
お問合せは、川棚温泉観光協会(083-772-0296)まで。 -
松尾神社(まつのおじんじゃ)
「下関市川棚温泉交流センター(川棚の杜)」の横にある急な石段を上ると、アニメの世界に迷い込んだような森に包まれます。
その奥にある鳥居の先には、「松尾神社」の拝殿と本殿が。
その空気、凛として……。
松尾神社は、太古から川棚温泉の守り神となっている青龍と、1585年(天正13年)に京都の松尾神社から勧請した神を相殿(あいどの)として祀った神社で、古くは「青龍権現社」(せいりゅうごんげんしゃ)と呼ばれていました。
境内に飾られた絵「36歌仙」は、百人一首のように歌人の姿を色鮮やかに描いたもので、有名な小野小町や紀貫之(きのつらゆき)の絵もあり、見応え十分です。
1585年(天正13年)といえば、羽柴秀吉が関白に就任した年。
太古のロマンに思いを馳せつつ、祈りを捧げたくなる雰囲気の小さな神社です。
お問合せは、川棚温泉観光協会(083-772-0296)まで。 -
国清山自然公園(こくせいざんしぜんこうえん)
川棚温泉街の奥にある「妙青寺」。
その右側にある脇道に向かい、道沿いの石仏様に見守られながら坂道を上り切ると、松や桜、サツキなどが茂る標高374mの「国清山自然公園」にたどり着きます。
まちなかから離れ、自然の音と香りに包まれた静かな空気に、思わず深呼吸。
この付近の山々は戦前までマツタケの産地で、温泉客のお目当ての一つはマツタケ狩りとマツタケ料理だったとのこと。
川棚温泉街を散策するついでで足を伸ばすのもありですが、坂がやや急なので、革靴だと少し疲れるかもしれません。
お問合せは、川棚温泉観光協会(083-772-0296)まで。 -
妙青寺
1431年(永享3年)、周防国・長門国守護であった大内持盛(もちもり)が、筑前に出陣して戦死した先代の大内盛見(もりはる)の菩提(ぼだい)を弔うため、「国清寺」の寺号で建立したといわれています。
その後、1551年(天文20年)、陶晴賢(すえはるかた)の反旗によって長門市深川の大寧寺で自刃した大内義隆(よしたか)の菩提を弔うため、旧臣であった杉連緒(つらつぐ)が再興して、寺号を「竜福山瑞雲寺」に改めました。
さらに、江戸時代に入ったばかりの1604年(慶長9年)、長府藩主であった毛利秀元(ひでもと)が、髙野に住んでいた実姉の妙青大姉(みょうせいだいし/川棚様)を埋葬するため、伽藍(がらん)の大修理を行い、寺号を「妙青寺」としました。
以来、毛利氏の庇護を受け、藩主立ち寄りの際には本陣とされたといいます。
「妙青寺」は、川棚温泉街の奥にある緩やかな坂を上った先にあり、御成門の横には、流浪の俳人、種田山頭火の句碑「湧いてあふれる中にねてゐる」が建っています。
本堂裏の庭園は、画禅一致の生活を送った禅僧、雪舟(せっしゅう)による築庭とも。
初夏には藤の花が咲き、訪れる人たちの目を楽しませてくれるでしょう。 -
下関市川棚温泉交流センター(川棚の杜)
「下関市川棚温泉交流センター(川棚の杜)」は、著名な建築家で新国立競技場「杜のスタジアム」の設計者でもある隈研吾さんが設計された下関市の公共施設です。
大小様々な三角形で構成されているのが特徴で、平成22年1月に竣工しました。
隈研吾さんは、“川棚温泉の豊かな自然と呼応するような有機的(ORGANIC)な建築になること”を目指して設計されました。
隈研吾さんの文化的精神性と創作的芸術性が込められた建物は、幾何学的であると同時に鍾乳洞や山を彷彿とさせる、独自性・希少性の高い形状として完成し、見る人々に強いインパクトを与え続けています。
また、大交流室は、川棚温泉と厚島(愛称:孤留島、こるとう)を愛した世界的なフランス人ピアニスト、アルフレッド・コルトーにちなんで「コルトーホール」との愛称で親しまれ、小交流室やコルトーの胸像が見守る「杜の広場」(野外)とともに、年間を通じて様々なイベントが開催されています。
さらに、屋内に併設する「下関市烏⼭民俗資料館」では、海外や日本各地の生活道具のコレクションを鑑賞できる企画展が開催されています。
観光や見学でお越しの皆さまによるご利用はもちろんのこと、地域にお住いの皆さまによるご利用もお待ちしています。
観光情報、イベント情報等の発信をはじめ、音楽、講演、研修、マルシェ等生活文化の拠点としてお気軽にご利用ください。
そこは、「川棚の杜」の名に相応しい、穏やかで優しい時間が流れる空間です。