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厚島(愛称:孤留島、こるとう)
「厚島」は、響灘の沖合2kmに浮かぶ、周囲わずか4kmの男島、すぐそばの女島、竜宮島、石島の4島からなる島々の総称。
愛称の「孤留島(こるとう)」は、1952年(昭和27年)の日本公演で川棚温泉に滞在したフランス人ピアニスト、アルフレッド・コルトーに由来します。
この島の景色に魅せられたコルトーは、当時の川棚村長に「天国のようなあの島でこっそり死にたい。ぜひ買い取りたい」申し入れます。
すると村長は、「永住するなら無償で差し上げましょう」と快諾。
島の名前を「孤留島」と命名することも提案され、コルトーは、いたく感激した様子だったということです。
「私の思いは、ひとりあの島に残るだろう」と言い残して帰国したコルトーですが、その後再び川棚温泉を訪れることは叶わず、85歳でこの世を去りました。
現在、島に渡ることはできませんが、コルトーが周囲に語った「カワタナの夢の島」は、コルトーの思いをそのまま残した美しい姿を、今も私たちに見せてくれています。
お問合せは、豊浦町観光協会(083-774-1211)まで。 -
鳴き砂ビーチうしろはま
国道191号より一つ西側を通る、小串の中道を角島方面へ。
その先に見えてくるのが、青い空・白い砂浜の「鳴き砂ビーチうしろはま」です。
浜辺を歩いたときに「キュッ、キュッ」と聞こえる“鳴き砂”は、砂が綺麗だからこそといわれます。
皆で一緒ににぎわえて、お一人様でもくつろげて、キャンプをしたり、バーベキューをしたり、海で遊んで、お風呂にも入れて。
ここは、いろんな遊びであふれています。
漂着木で沸かした五右衛門風呂は、気軽に入れる「鳴き砂の湯」と、湯治を目的にした「潮湯治」の2種類。
オーナーによると、沸かした海水に浸かる「潮湯治」は、江戸時代以前に行われていた未病対策なのだそう。
海水浴シーズンならではのアクティビティとして、インストラクターが運転する水上バイクとバナナボートもお楽しみいただけます。
大人も子どもも楽しみながら癒やしを得られるこのビーチ。
全国的にも貴重なスポットです。 -
小串エヒメアヤメ自生南限地帯(国指定天然記念物)
「エヒメアヤメ」は、中国東北部、朝鮮半島など寒い地方に分布するアヤメ科の多年生草。
明治32年(1899年)に愛媛県で採取された経緯から、そうと呼ばれるようになりました。(和名は「誰故草」(たれゆえそう)。地方によっては「イッスンショウブ」とも。)
本州西部、四国、九州にも点々と自生し、ここがかつて大陸と陸続きであったことを植物学的に証明する重要な存在で、その自生地は、国の天然記念物に指定されます。
ここへ向かうには、国道191号沿いにある小串警察署前の丁字路を東側(山側)に向かう県道35号線に入ります。
そのまましばらく進むと道幅が狭くなり、その先に「小串エヒメアヤメ自生南限地帯」の看板が現れます。
看板の前には、1台の車を停められる程度のスペースがありますが、狭い道で車の往来もありますので、長時間の駐車は禁物です。
そこから徒歩で250mほど未舗装の山道を注意深く進むと、「小串エヒメアヤメ自生南限地帯」に到着です。
4月から5月にかけ、500株前後の「エヒメアヤメ」が、青紫色の可憐な花を咲かせます。
お問合せは、豊浦町観光協会(083-774-1211) まで。 -
日本大敷網漁業発祥の地
大敷網漁(おおしきあみりょう)とは、魚を垣網(かきあみ)で誘導し、あらかじめ設置していた袋網(ふくろあみ)の中に追い込んで捕る定置網漁の一つ。
その発祥が、ここ下関市豊浦町宇賀の湯玉にあります。
1656年(明暦2年)、回遊する魚の群れを目にした地元の漁師・山本惣左衛門が、これを捕らえる「魚敷網」を発明。
彼の死後・1668年(寛文8年)に、子の勘兵衛が、魚敷網に改良を施したのが「湯玉大敷網」です。
「湯玉大敷網」は、画期的な漁法として長崎県の五島や対馬にまで伝わり、西日本各地で沿岸漁業の中心的な役割を担うようになりました。
湯玉漁港の北側にある山のふもとには、農林水産大臣・周東英雄の揮毫(きごう)による記念碑が建てられ、今も湯玉漁港を見守っています。
現在では、湯玉漁港で定置網漁を営む漁師はいなくなりましたが、湯玉にかつてのにぎわいを取り戻そうと、4月から12月までの月に2回、山口県漁協湯玉支店による朝市「フレッシュ湯玉」が開催され、新鮮な活魚を求める多くのお客様が訪れています。
お問合せは、豊浦町観光協会(083-774-1211)まで。 -
湯浅倉平君生誕の地
豊浦郡宇賀村(現在の下関市豊浦町宇賀)の出身で、大正から昭和にかけて警視総監、宮内大臣等を歴任した湯浅倉平。
その生誕の地に、石碑が建てられています。
1923年(大正12年)、関東大震災発生の直後に警視総監に任命された湯浅倉平は、混乱の中で被災者の救護と治安の確保に奔走。
その後、会計検査院長、宮内大臣を歴任し、1936年(昭和11年)の二・二六事件では、反乱将校らの掲げる「昭和維新」に反対する立場の内大臣として昭和天皇を補佐し、その重責を全うしました。
また、内大臣時代には、高齢の元老西園寺公望を助け、宮中良識派の一員として陸軍の専横に対抗する立場を貫いたため、「生きた英雄」と称える声もあったといいます。
今も、郷土の誇りとして慕われる湯浅倉平。
その実直で果敢な人柄と功績を称える石碑が、宇賀のまちと響灘を見守っています。
お問合せは、豊浦町観光協会(083-774-1211)まで。 -
夢ヶ丘公園 / 礒部國四郎建立記念碑「獨断腸」
国道191号沿いにある下関市立小串小学校前の交差点を東側(山側)に曲がり、1kmほど進むと、その山中に石碑や石仏、遊具などのある「夢ヶ丘公園」が見えてきます。
そこは、明治・大正の時代、小串地区の発展に力を尽くした礒部國四郎(1867~1935年)の記念碑がある公園です。
礒部國四郎は、「王政復古の大号令」が発せられた慶応3年(1867年)、小串の地に生まれました。
31歳で小串村長に就任して以降、山口県議会議員などを歴任し、明治30年代には、小串・川棚・楢崎・小月地区を結ぶ達道(現在の県道35号線)の改修事業に尽力。
しかし、この事業に関連して公職を追われた彼は、その運命を憂う断腸の思いから、公園の一角に記念碑「獨断腸」を建立しました。
その後、再び公職に就き、山口県議会議長や小串町長も歴任した彼の功績を称えるため、昭和45年、地元の有志が彼の胸像を建立。
そのほか、田中義一・大岡幾造記念碑、大内義隆公残党古戦場碑、森鴎外の句碑、多くの地蔵尊が、今も小串の地を静かに見守っています。
あちこちに急な坂がありますので、お足下に十分ご注意ください。
お問合せは、豊浦町観光協会(083-774-1211)まで。